RINOの何でも帳

頭の中をアウトプットする雑記帳。

自分にとっての正解

この間、本屋に寄った時に学校教育のジャンルをふらっと思った事です。

私くらいの世代の学校教育に於いて答えを出す・答えを探す・正しい一つの答えを丸暗記するという事が思考力のベースとなっていますが、今これからの子供たちの学校指導は答えを自ら造るという方に流れがシフトしているんじゃないかなと感じました。

誰が見ても正解というよりも、その人なりの答えを創造していくというようなイメージを持ちました。

そうすると今の子供達は学習していくうちに理解力もさる事ながらクリエイティブな能力が更に向上していくのかなとか色々と思いを巡らせていました。

今回は答えについて私なりの考えをお話します。

私は今すぐに解らない事について悲観したり腹を立てていたりしていた事がよくありました。

そんな時の口癖は「何が正解なのか分からない!」でした。

学校での勉強であれば一つの答えを覚えていればそれで良かったのですが生きていると様々な答えを自分で導き出さなければいけない事が毎瞬ありますね。

それから私にとっての「正解」はいつも他人や世間の目を基準にしていて本当のところはそう考えてはいないけど周りの雰囲気を掴んで一番正解そうな自分を演じていました。自分が納得しているか否かという事を全く置き去りにしていました。

で、家に帰って「あんな事思ってないのに」なんて後悔するというとても疲れる過ごし方をしていました。

どこかで自分が本当に思っていることは間違っているんだと自分なりの答えに自信が持てないでいたのでしょう。

なので周囲が如何に受け入れてくれる答えがという事がとても重要なことのように思っていました。

そんな事ばかりしているのでいつまで経っても自分の出す答えに自信が持てずにいました。

無意識に思考が何が正解なのかを求めると同時に間違えたらバカだと思われる。馬鹿にされる。笑われる。他にも色んなデメリットを突きつけてくるんです。

そうすると思ったことの1/100も言えなくて消化不良になるんです。

それから無理やりそれらしい事を言わなきゃいけないというプレッシャーがのし掛かるので沈黙するという選択肢もありませんでした。

思った事をストレートに言うことについても沢山の障壁を自ら作り出していました。

間違えばバツが付けられ答えが正しければマルという刷り込まれた概念とそれを漠然と受け入れていた事で長年「正解」を追い求めていたのでしょう。

バツを付けられることに大きな恐れがあったんですね。

でも今となってはバツならどうぞ幾らだって付けていただいて構いません。私は自分にとってのマルを尊重します。この考え方を徹底的に自分に叩き込んで習慣付けていきました。誰かにとってバツでも自分にとって花マルな答えならそれでいいんです。

するとね、結構他人も間違えたり素っ頓狂なことしていたり手前勝手にやっていることに気づくわけです。

それに周りに合わせた正解をしている人よりも間違えたり素っ頓狂でも自分にとっての正解を突き進んでいる人の方が魅力的に見えたりするんですね。

見た目が派手とか奇抜とかいつも誰かを煽っているとかではなくて何というか雰囲気のようなものが面白くてカッコいいんですよ。

そういう人に出会うと「これが自分にとっての正解を見つけて創造して来た人のユニークさか」と感動します。自分も堂々としていようと思える指針になります。

間違えているかなんてどうでも良くてとにかく自分の気持ちに従ってみてもいいのかなと思えます。

そもそもご立派な崇高な正解なんか要らないんです。導き出すのは自分にとっての花マルな正解でいいんですね。